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鈴木啓太 現役引退記者会見
10日、2015シーズンをもって現役を引退することとなった鈴木啓太の記者会見が浦和ロイヤルパインズホテルで行われ、本人から引退を決意した経緯や、レッズで過ごした16年間を振り返った思いなどが語られた。
【鈴木啓太】
「皆さま、本日はお忙しい中、私の引退会見にお越しいただきありがとうございます。引退にあたっての思いや気持ちは、昨年の11月22日のホーム最終戦でお話しさせていただきましたので、ここではそれほど多くを語る必要はないのかなと思います。
思えば16年間、浦和レッズという偉大なクラブでサッカーができたことを幸せに思っています。また、あっという間だったと実感しています。これからのことについてなど、皆さんから質問がありましたら、話せることはそれほど多くないかもしれませんが、お話ししたいと思っています」
【質疑応答】
(今後の予定については?)
「今までサッカー界から恩恵を受けてきましたので還元したい気持ちですし、浦和レッズとはこれからも関わり合っていきたいと思っています。それは、淵田社長をはじめ、クラブとゆっくり話していきたいです。プロサッカー選手として、コンディションやパフォーマンスについてチャレンジしながら戦ってきたので、そういった分野でも携わっていきたいと考えています。
今はスポーツ科学の分野が盛り上がっていますし、選手のパフォーマンスをサポートしたり、コンディションを整えたりすることに、一つのプロジェクトとして力を注いでいきたいと考えています。
具体的には、昨年からいろいろなご縁で知り合った方たちと、腸内フローラの解析の事業を立ち上げました。外から選手のコンディションやパフォーマンスを整えることや、向上させることは、一般の方にも還元できると考えています。サッカーとは畑が違うと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、選手にとって一番大事なことは、健康でパフォーマンスを最大限発揮できることだと思います。解説の話をいただいたり、チームメイトからは雑誌の読者モデルにと言われたりもしましたが(笑)、いろいろなことにチャレンジしていく中で、スポーツ界やサッカー界を、今までの自分の経験の中からサポートしていけたらと考えています」
(選手でなくなって初めての新年をどのように迎えたのか?)
「一つは、選手として今年はキャンプをやらなくていいという安心した気持ちはあります(笑)。元日に天皇杯の決勝を迎えた後、1月2日に毎年顔を出していた小学校の初蹴りに行って、その翌日は中学・高校の初蹴りに行きましたが、これがプロサッカー選手として参加できる最後の初蹴りなのだと感じました。感謝の気持ち、懐かしい気持ち、少し寂しい気持ちなどがありました。ただ、将来に向けてワクワクすることがたくさんあります。選手としては終わりましたが、また新たな戦いが始まると思って過ごしていました」
(浦和レッズの監督など、将来に指導者のライセンスを取得する予定は?)
「指導者になりたいかどうかと言われたら、正直に答えると、イエスではないです。選手の側から見ていても、監督はとてもストレスのかかる仕事です。僕は不整脈を持っているので、心臓に悪いことはあまりしない方がいいのかなと(笑)。それは冗談ですが、いろいろな形でサッカーの文化を上げていかなければいけないと、選手として感じていました。
監督をやるとすれば、浦和レッズの監督は偉大すぎるので、幼稚園や小学生の子供たちの指導には携わりたいと思っています。ただ、いま思っていることなので、将来は分からないです。後ろに淵田社長もいらっしゃいますが、どちらかというと浦和レッズの社長の方が興味はあります(笑)」
(『浦和の男で終わる』ことについては?)
「他のチームからのオファーもありましたが、それについては昨年にミシャ監督や強化本部長とも話をしました。ずっと悩んでいた中で、退団のメッセージを出したときは、まだ決まっていない状況でした。ファン・サポーターの方のリアクションもあって、本当に悩んだのですが、その時に感じたことは『どこにいってもサッカーができるなら続けてほしい』と、純粋に応援してくれる方たちがたくさんいらっしゃることを感じました。
例えば、サッカー選手として続けるのであれば、可能だったのかもしれませんが、コンディションの問題もありましたし、100パーセントでできなければ、ピッチに立つ資格はないのではないかと考えた経緯もありました。それであれば、静岡もサッカーの街ですが、浦和というサッカーの街に育ててもらった縁を感じて、ここでやめるべきだと思いました。そこで浦和の男として終わりたいと、素直に感じました」
(ご家族やチームメイトにはどのように相談したのか?)
「選手のみんなは、『本当にやめるの?』という感じでした。僕の性格をよく分かってくれていますし『啓太さんならいいんじゃない』という軽い感じでした(笑)。家族は、ずっと僕のコンディションのことを心配してくれていました。両親は少し寂しそうな顔をしていましたが、僕も34歳ですし、考えや悩みはよく分かってくれていたと思いますので、ただやめることにしたと伝えただけです。妻も『後悔しないならいいんじゃない』と、あまりドラマチックなことはなかったです」
(16年間過ごした浦和レッズはどのような場であったのか?)
「毎日練習に来なくなるのは不思議な感じですが、これからも浦和レッズに携わらせていただきたいと思っています。選手として16年間を振り返った思いはありますが、過去を振り返るというよりは、これからのサッカー界や浦和レッズを、自分がどのように盛り上げていけるのかを考えています。これからもよろしくお願いしますという感情ですし、選手としての気持ちを言えば、本当に感謝しかありません」
(今までで一番思い出に残ったことは?)
「いろいろ聞かれるのですが、その時々の瞬間ではなくて、この場でお話しさせていただいていることもそうですし、タイトルを獲得した時もそうです。今もその延長線上にあって、ずっと物語は続いているのだと思います。ですので、これというのがありません。何か一つ挙げるとすれば、浦和レッズに加入が決まったときに、僕と浦和レッズとの人生が始まったので、クラブと契約した瞬間なのかなと思います。今も継続中という感じです」
(多くの指導者との出会いがあったが、その中でもオフトさんとオシムさんとの出会いについて、その思い出と、引退を決めた後の報告については?)
「オフトさんとは、僕が加入して3年目の時に浦和レッズの監督になられて、僕はそこでサッカーとはこういうものだということを教わりました。若手を積極的に起用してくれたので、僕にとってはチャンスをもらった監督でした。僕がまだ小さかった頃ですが、オフトさんがワールドカップ予選で日本代表を率いていたのを見ていて、怖そうな人だなとは思っていました(笑)。しかし、話しをしてみると、温厚で、誠実で、どんな選手に対しても公平に接してくれました。使われない選手にも誠実に対応してくれた記憶があります。そこで浦和レッズの土台が作られたのは真実だと思いますので、本当に感謝しています。
オシムさんは、日本代表に入るきっかけを作ってくれました。本当の先生というか指導者というか、怖くて何を考えているか分からないというイメージで、選手たちもそう感じていたと思います。先日、オシムさんのところに行かれた方がいらっしゃって、オシムさんから僕に、引退に関するメッセージを届けてくれました。僕はオシムさんから『水を運ぶ人』と言われていましたので、皆さんもそのイメージが強いと思います。あまりスポットライトを浴びる機会が少なかった僕に、うまい言葉でスポットライトを浴びさせてくれたのかなと思います。そのメッセージの中では、いい指導者になってほしいということが書かれてました。先ほどお話ししたとおり、指導者はちょっと・・・という思いもあるので、オシムさんに会いに行くのは怖いです(笑)。そして、オシムさんには、サッカーだけでなく人生でもいろいろなことを学びました。オシム語録と言われていますが、それは人生の教訓にしていきたいと思っていますし、本当に素晴らしい監督だったと思います。
そして、忘れてはいけないのがミシャ監督です。2010年にコンディションが上がらなくて、サッカーをやめたいと思っていた時期がありました。その翌年に残留争いをして、本当に苦しいシーズンを送り、このままレッズにいても力になれないのではないかと感じていました。その中でミシャは、自分が背負っている重荷というか、プレッシャーというか、そういったことに対して、『おまえはそんなことを考えなくていいんだ』と、『大原にはサッカーが楽しいと思って来てくれ』と、おっしゃってくださいました。そこから僕の第2のサッカー人生が始まりました。
ミシャ監督は、サッカーの本当の楽しさを、子供の頃はこうやってサッカーをやっていたな、という気持ちを、もう一度呼び起こしてくれた監督です。1stステージ優勝を除いては、僕とミシャ監督との時間の中でタイトルを獲ることはできませんでした。これからも浦和レッズでがんばってほしいですし、力になれることがあれば、いつでも力になりたいと思っています」
(加入1年目以外は背番号13番をつけてきたが、背番号に対する思いと、どんな選手に引き継いでもらいたいか?)
「背番号には、選手やファン・サポーターの思い入れがあると思います。13番をずっと背負い続けてきたのは、若い頃は自分の番号にしたいという思いからでした。これが13番の鈴木啓太だと、自分自身がそう思いたいという気持ちからでした。しかし、スタジアムで13番のユニフォームを着てくださるファン・サポーターの方が増えていくことで、僕の気持ちも少しずつ変わっていきました。ユニフォームに番号を入れて応援する方と、そうでない方がいると思いますが、『今年は13番を入れて応援に行きます』と言ってもらったときはとてもうれしかったです。自分だけでなく、いろいろな人の思いを背負って戦うということなので、応援してくれるファン・サポーターと一緒に背負っていくものだと思うようになっていきました。
今後、誰が13番を付けるのかは分かりませんが、13番には僕の怨念というか、残像が残っていると思うので(笑)、早くそのイメージを変えられるような活躍をしてほしいです。僕からの挑戦状ではないですが、僕を乗り越えて行ける選手につけてほしいと思います」
(浦和とはどういうものであり、今後はどのようにしていきたいか?)
「静岡よりも、浦和の人間になってしまったという思いです。浦和の街はサッカーも盛んですし、学力も高い素晴らしい場所です。浦和レッズの選手として、もっと浦和の街がサッカーで盛り上がってほしいと思います。浦和レッズが、浦和の人たちのクラブになっていくことが、正しい道なのではないかと感じています。もちろん浦和以外の場所で応援してくださるファン・サポーターの方もいらっしゃると思いますが、試合後には、もっと浦和の街がたくさんの人で盛り上がる光景が見たいです。負けたら静かになってしまうようでは困ってしまいますが(笑)、そういう街の空気があると思います。浦和レッズが、浦和の人たちのものとしてあると素敵だなと感じます。
ただ、それはエンターテインメントではなく文化だと思っているので、とても時間のかかることだと思います。文化にしていくためには、選手やクラブ、ファン・サポーターも含めて、浦和レッズを愛する人たちの努力や結果が影響してきます。浦和が盛り上がるためにも、今シーズンは優勝してもらいたいです。僕は浦和に対してそのようなイメージを持っていますし、そうなってほしいと思っています。
なかなか一言で表せるものではないですが、浦和がどんな街かと聞かれたときに、声を大にして『浦和レッズの街だよ』と言えるようにしたいです。そのためには文化として根付かなければいけません。『故郷』と言った方がいいのかもしれませんが、浦和は僕を育ててくれた街です」
(若い選手のお手本になるようなキャリアを歩んでこられたが、伸び悩んでいる若い選手や子供たちにメッセージを)
「僕の好きな言葉の中に、オシムさんの『知恵と勇気』があります。オシムさんは考えて走りなさいということを言っていますが、考えているだけで行動しないのは間違っているし、考えないで勇気だけで行動するのも違います。いろいろ考えた中で行動することを、若い選手には知ってもらいたいです。
そして『努力は運を支配する』という言葉があります。僕はうまいサッカー選手ではありません。それでも最終的には諦めなかった人が何かを掴むのだと思います。僕はたまたまプロサッカー選手として16年やらせてもらいましたが、選手の数は決まっているので、誰もが16年間であったり、サッカー選手として成功することは叶いません。サッカーから学んだことを次のステップで生かしたいですし、サッカー以外でも共通して使えることがあると思います。
ただ、100パーセントの情熱を注げたのかどうかが大事です。何事にも100パーセントの情熱を注いだ上で、それで成功してもいいし、失敗してもいい、ただ、チャレンジしないことが間違っているということをサッカー選手を目指す人たちには話しています。誰でもメッシやC・ロナウドにはなれません。努力したからといって、誰もが目標に到達できるわけではありません。それは誰にも分からないことだからこそ、100パーセントやらなければチャレンジする権利もないと思っています。とにかく情熱をすべて注ぎ込んでほしいです」
(今までで一番影響を受けた選手は?)
「うまい選手を挙げればきりがないですが、プロになって最初に衝撃を受けたのが内舘秀樹さんです。僕は浦和レッズに入る前までは、内舘さんのことを知りませんでした。プロになって初めての鹿児島の指宿キャンプで内舘さんと一緒にボール回しをしていたのですが、自分も若かったですし、年上の選手に負けたくない気持ちでしたが、一つのトラップで状況を変えてしまうような、ぶつかりたくてもぶつかれない、そういうプロのすごさを感じたのが内舘さんでした。その時に、自分はまだまだだし、プロの世界の厳しさを感じたことは思い出に残っています。他の選手であれば、中村俊輔選手や遠藤保仁選手、小野伸二選手など、衝撃を受けた選手を挙げたらきりがないですが、プロはこれぐらいやれなければいけないと最初に教わったのは内舘さんでした」
(一番思い出深い試合、または印象に残った瞬間については?)
「うれしかった試合やチャンピオンになった試合は印象に残っています。クラブや個人にとっても大きなものだったと思います。ですが、いま振り返れば、2011年のアビスパ福岡戦だと思います。ホームでの試合もそうでしたし、アウェイで残留の懸かった試合もそうでした。
当時キャプテンをやらせてもらっていて、苦しいシーズンの中で、ホームの福岡戦で『この試合には勝たなければいけない』という緊張感の中で試合をして、自分がゴールを決めて3-0で勝ててホッとしました。そこからさらに難しくなっていく中で、リーグ終盤残り2節の福岡での試合は、キャプテンとして、『このクラブだけは再びJ2に落としてはいけない』と、強く思っていました。僕は浦和レッズがJ2の時に加入していますが、その苦しさや試合の難しさは、当時試合に出ていなかった自分も感じていました。そこから浦和レッズがいい時期を迎えて、ナビスコカップ、リーグ、ACLのタイトルを獲って、これだけいい思いをさせてもらっている中で、ファン・サポーターやクラブスタッフの皆さんの悲しむ顔は見たくないという思いで戦っていました。このクラブを再びJ2で戦う状況にしてはいけないという思いの中での勝利でした。先制点を取られて苦しい状況でしたし、福岡戦は、自分の中ではACL決勝よりも大きな試合だったと思っています」
(山田暢久さんがスカウトされた伊藤涼太郎選手が来シーズンから加入するが?)
「短い時間でしたが、一緒にプレーして、素晴らしい才能を持っている選手だと感じました。これから浦和レッズを代表する選手に育ってほしいと思います。彼も練習に参加する前に『遠慮しないでいきます』と言っていました。しばらく様子をみていましたが、本当に遠慮なくプレーしていたので、頼もしいと感じました。自分は彼のようなプレースタイルではないので、彼の考えていることは分かりませんが、独特なリズムを持っていますし、攻撃のいいアクセントになると期待しています。これから壁にぶつかることもあると思いますが、壁を乗り越えるだけの精神力を養ってほしいと思います。遠慮なくやっていくという言葉を忘れずに、熱い気持ちを持ってプレーしてほしいです」
(数日後にはシーズンが始まるが、チームメイトの選手たちにメッセージを)
「『一生懸命走ってください』ですね(笑)。僕と一番長くプレーしたのは平川さんだと思いますが、僕が今のチームに何かを言えるかといえば、そういう立場にはないと思います。選手は100パーセントの力を出そうとがんばっています。選手たちは、キャンプからシーズン終了まで、体力的にも精神的にも厳しい1年を送ります。その中で悔いなく戦ってほしいです。僕の今の立場ということではなく、一人のファン・サポーターとして言いたいことは、『タイトルを獲ってくれ』、『がんばってくれ』ということだけです。あとはいろいろ話をしても、みんなも分かっていると思いますから。その期待に応えられるだけの力を養ってきたので、『今シーズン優勝してください』ということだけです」
【浦和レッズオフィシャルメディア(URD:OM)】
【鈴木啓太】
「皆さま、本日はお忙しい中、私の引退会見にお越しいただきありがとうございます。引退にあたっての思いや気持ちは、昨年の11月22日のホーム最終戦でお話しさせていただきましたので、ここではそれほど多くを語る必要はないのかなと思います。
思えば16年間、浦和レッズという偉大なクラブでサッカーができたことを幸せに思っています。また、あっという間だったと実感しています。これからのことについてなど、皆さんから質問がありましたら、話せることはそれほど多くないかもしれませんが、お話ししたいと思っています」
【質疑応答】
(今後の予定については?)
「今までサッカー界から恩恵を受けてきましたので還元したい気持ちですし、浦和レッズとはこれからも関わり合っていきたいと思っています。それは、淵田社長をはじめ、クラブとゆっくり話していきたいです。プロサッカー選手として、コンディションやパフォーマンスについてチャレンジしながら戦ってきたので、そういった分野でも携わっていきたいと考えています。
今はスポーツ科学の分野が盛り上がっていますし、選手のパフォーマンスをサポートしたり、コンディションを整えたりすることに、一つのプロジェクトとして力を注いでいきたいと考えています。
具体的には、昨年からいろいろなご縁で知り合った方たちと、腸内フローラの解析の事業を立ち上げました。外から選手のコンディションやパフォーマンスを整えることや、向上させることは、一般の方にも還元できると考えています。サッカーとは畑が違うと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、選手にとって一番大事なことは、健康でパフォーマンスを最大限発揮できることだと思います。解説の話をいただいたり、チームメイトからは雑誌の読者モデルにと言われたりもしましたが(笑)、いろいろなことにチャレンジしていく中で、スポーツ界やサッカー界を、今までの自分の経験の中からサポートしていけたらと考えています」
(選手でなくなって初めての新年をどのように迎えたのか?)
「一つは、選手として今年はキャンプをやらなくていいという安心した気持ちはあります(笑)。元日に天皇杯の決勝を迎えた後、1月2日に毎年顔を出していた小学校の初蹴りに行って、その翌日は中学・高校の初蹴りに行きましたが、これがプロサッカー選手として参加できる最後の初蹴りなのだと感じました。感謝の気持ち、懐かしい気持ち、少し寂しい気持ちなどがありました。ただ、将来に向けてワクワクすることがたくさんあります。選手としては終わりましたが、また新たな戦いが始まると思って過ごしていました」
(浦和レッズの監督など、将来に指導者のライセンスを取得する予定は?)
「指導者になりたいかどうかと言われたら、正直に答えると、イエスではないです。選手の側から見ていても、監督はとてもストレスのかかる仕事です。僕は不整脈を持っているので、心臓に悪いことはあまりしない方がいいのかなと(笑)。それは冗談ですが、いろいろな形でサッカーの文化を上げていかなければいけないと、選手として感じていました。
監督をやるとすれば、浦和レッズの監督は偉大すぎるので、幼稚園や小学生の子供たちの指導には携わりたいと思っています。ただ、いま思っていることなので、将来は分からないです。後ろに淵田社長もいらっしゃいますが、どちらかというと浦和レッズの社長の方が興味はあります(笑)」
(『浦和の男で終わる』ことについては?)
「他のチームからのオファーもありましたが、それについては昨年にミシャ監督や強化本部長とも話をしました。ずっと悩んでいた中で、退団のメッセージを出したときは、まだ決まっていない状況でした。ファン・サポーターの方のリアクションもあって、本当に悩んだのですが、その時に感じたことは『どこにいってもサッカーができるなら続けてほしい』と、純粋に応援してくれる方たちがたくさんいらっしゃることを感じました。
例えば、サッカー選手として続けるのであれば、可能だったのかもしれませんが、コンディションの問題もありましたし、100パーセントでできなければ、ピッチに立つ資格はないのではないかと考えた経緯もありました。それであれば、静岡もサッカーの街ですが、浦和というサッカーの街に育ててもらった縁を感じて、ここでやめるべきだと思いました。そこで浦和の男として終わりたいと、素直に感じました」
(ご家族やチームメイトにはどのように相談したのか?)
「選手のみんなは、『本当にやめるの?』という感じでした。僕の性格をよく分かってくれていますし『啓太さんならいいんじゃない』という軽い感じでした(笑)。家族は、ずっと僕のコンディションのことを心配してくれていました。両親は少し寂しそうな顔をしていましたが、僕も34歳ですし、考えや悩みはよく分かってくれていたと思いますので、ただやめることにしたと伝えただけです。妻も『後悔しないならいいんじゃない』と、あまりドラマチックなことはなかったです」
(16年間過ごした浦和レッズはどのような場であったのか?)
「毎日練習に来なくなるのは不思議な感じですが、これからも浦和レッズに携わらせていただきたいと思っています。選手として16年間を振り返った思いはありますが、過去を振り返るというよりは、これからのサッカー界や浦和レッズを、自分がどのように盛り上げていけるのかを考えています。これからもよろしくお願いしますという感情ですし、選手としての気持ちを言えば、本当に感謝しかありません」
(今までで一番思い出に残ったことは?)
「いろいろ聞かれるのですが、その時々の瞬間ではなくて、この場でお話しさせていただいていることもそうですし、タイトルを獲得した時もそうです。今もその延長線上にあって、ずっと物語は続いているのだと思います。ですので、これというのがありません。何か一つ挙げるとすれば、浦和レッズに加入が決まったときに、僕と浦和レッズとの人生が始まったので、クラブと契約した瞬間なのかなと思います。今も継続中という感じです」
(多くの指導者との出会いがあったが、その中でもオフトさんとオシムさんとの出会いについて、その思い出と、引退を決めた後の報告については?)
「オフトさんとは、僕が加入して3年目の時に浦和レッズの監督になられて、僕はそこでサッカーとはこういうものだということを教わりました。若手を積極的に起用してくれたので、僕にとってはチャンスをもらった監督でした。僕がまだ小さかった頃ですが、オフトさんがワールドカップ予選で日本代表を率いていたのを見ていて、怖そうな人だなとは思っていました(笑)。しかし、話しをしてみると、温厚で、誠実で、どんな選手に対しても公平に接してくれました。使われない選手にも誠実に対応してくれた記憶があります。そこで浦和レッズの土台が作られたのは真実だと思いますので、本当に感謝しています。
オシムさんは、日本代表に入るきっかけを作ってくれました。本当の先生というか指導者というか、怖くて何を考えているか分からないというイメージで、選手たちもそう感じていたと思います。先日、オシムさんのところに行かれた方がいらっしゃって、オシムさんから僕に、引退に関するメッセージを届けてくれました。僕はオシムさんから『水を運ぶ人』と言われていましたので、皆さんもそのイメージが強いと思います。あまりスポットライトを浴びる機会が少なかった僕に、うまい言葉でスポットライトを浴びさせてくれたのかなと思います。そのメッセージの中では、いい指導者になってほしいということが書かれてました。先ほどお話ししたとおり、指導者はちょっと・・・という思いもあるので、オシムさんに会いに行くのは怖いです(笑)。そして、オシムさんには、サッカーだけでなく人生でもいろいろなことを学びました。オシム語録と言われていますが、それは人生の教訓にしていきたいと思っていますし、本当に素晴らしい監督だったと思います。
そして、忘れてはいけないのがミシャ監督です。2010年にコンディションが上がらなくて、サッカーをやめたいと思っていた時期がありました。その翌年に残留争いをして、本当に苦しいシーズンを送り、このままレッズにいても力になれないのではないかと感じていました。その中でミシャは、自分が背負っている重荷というか、プレッシャーというか、そういったことに対して、『おまえはそんなことを考えなくていいんだ』と、『大原にはサッカーが楽しいと思って来てくれ』と、おっしゃってくださいました。そこから僕の第2のサッカー人生が始まりました。
ミシャ監督は、サッカーの本当の楽しさを、子供の頃はこうやってサッカーをやっていたな、という気持ちを、もう一度呼び起こしてくれた監督です。1stステージ優勝を除いては、僕とミシャ監督との時間の中でタイトルを獲ることはできませんでした。これからも浦和レッズでがんばってほしいですし、力になれることがあれば、いつでも力になりたいと思っています」
(加入1年目以外は背番号13番をつけてきたが、背番号に対する思いと、どんな選手に引き継いでもらいたいか?)
「背番号には、選手やファン・サポーターの思い入れがあると思います。13番をずっと背負い続けてきたのは、若い頃は自分の番号にしたいという思いからでした。これが13番の鈴木啓太だと、自分自身がそう思いたいという気持ちからでした。しかし、スタジアムで13番のユニフォームを着てくださるファン・サポーターの方が増えていくことで、僕の気持ちも少しずつ変わっていきました。ユニフォームに番号を入れて応援する方と、そうでない方がいると思いますが、『今年は13番を入れて応援に行きます』と言ってもらったときはとてもうれしかったです。自分だけでなく、いろいろな人の思いを背負って戦うということなので、応援してくれるファン・サポーターと一緒に背負っていくものだと思うようになっていきました。
今後、誰が13番を付けるのかは分かりませんが、13番には僕の怨念というか、残像が残っていると思うので(笑)、早くそのイメージを変えられるような活躍をしてほしいです。僕からの挑戦状ではないですが、僕を乗り越えて行ける選手につけてほしいと思います」
(浦和とはどういうものであり、今後はどのようにしていきたいか?)
「静岡よりも、浦和の人間になってしまったという思いです。浦和の街はサッカーも盛んですし、学力も高い素晴らしい場所です。浦和レッズの選手として、もっと浦和の街がサッカーで盛り上がってほしいと思います。浦和レッズが、浦和の人たちのクラブになっていくことが、正しい道なのではないかと感じています。もちろん浦和以外の場所で応援してくださるファン・サポーターの方もいらっしゃると思いますが、試合後には、もっと浦和の街がたくさんの人で盛り上がる光景が見たいです。負けたら静かになってしまうようでは困ってしまいますが(笑)、そういう街の空気があると思います。浦和レッズが、浦和の人たちのものとしてあると素敵だなと感じます。
ただ、それはエンターテインメントではなく文化だと思っているので、とても時間のかかることだと思います。文化にしていくためには、選手やクラブ、ファン・サポーターも含めて、浦和レッズを愛する人たちの努力や結果が影響してきます。浦和が盛り上がるためにも、今シーズンは優勝してもらいたいです。僕は浦和に対してそのようなイメージを持っていますし、そうなってほしいと思っています。
なかなか一言で表せるものではないですが、浦和がどんな街かと聞かれたときに、声を大にして『浦和レッズの街だよ』と言えるようにしたいです。そのためには文化として根付かなければいけません。『故郷』と言った方がいいのかもしれませんが、浦和は僕を育ててくれた街です」
(若い選手のお手本になるようなキャリアを歩んでこられたが、伸び悩んでいる若い選手や子供たちにメッセージを)
「僕の好きな言葉の中に、オシムさんの『知恵と勇気』があります。オシムさんは考えて走りなさいということを言っていますが、考えているだけで行動しないのは間違っているし、考えないで勇気だけで行動するのも違います。いろいろ考えた中で行動することを、若い選手には知ってもらいたいです。
そして『努力は運を支配する』という言葉があります。僕はうまいサッカー選手ではありません。それでも最終的には諦めなかった人が何かを掴むのだと思います。僕はたまたまプロサッカー選手として16年やらせてもらいましたが、選手の数は決まっているので、誰もが16年間であったり、サッカー選手として成功することは叶いません。サッカーから学んだことを次のステップで生かしたいですし、サッカー以外でも共通して使えることがあると思います。
ただ、100パーセントの情熱を注げたのかどうかが大事です。何事にも100パーセントの情熱を注いだ上で、それで成功してもいいし、失敗してもいい、ただ、チャレンジしないことが間違っているということをサッカー選手を目指す人たちには話しています。誰でもメッシやC・ロナウドにはなれません。努力したからといって、誰もが目標に到達できるわけではありません。それは誰にも分からないことだからこそ、100パーセントやらなければチャレンジする権利もないと思っています。とにかく情熱をすべて注ぎ込んでほしいです」
(今までで一番影響を受けた選手は?)
「うまい選手を挙げればきりがないですが、プロになって最初に衝撃を受けたのが内舘秀樹さんです。僕は浦和レッズに入る前までは、内舘さんのことを知りませんでした。プロになって初めての鹿児島の指宿キャンプで内舘さんと一緒にボール回しをしていたのですが、自分も若かったですし、年上の選手に負けたくない気持ちでしたが、一つのトラップで状況を変えてしまうような、ぶつかりたくてもぶつかれない、そういうプロのすごさを感じたのが内舘さんでした。その時に、自分はまだまだだし、プロの世界の厳しさを感じたことは思い出に残っています。他の選手であれば、中村俊輔選手や遠藤保仁選手、小野伸二選手など、衝撃を受けた選手を挙げたらきりがないですが、プロはこれぐらいやれなければいけないと最初に教わったのは内舘さんでした」
(一番思い出深い試合、または印象に残った瞬間については?)
「うれしかった試合やチャンピオンになった試合は印象に残っています。クラブや個人にとっても大きなものだったと思います。ですが、いま振り返れば、2011年のアビスパ福岡戦だと思います。ホームでの試合もそうでしたし、アウェイで残留の懸かった試合もそうでした。
当時キャプテンをやらせてもらっていて、苦しいシーズンの中で、ホームの福岡戦で『この試合には勝たなければいけない』という緊張感の中で試合をして、自分がゴールを決めて3-0で勝ててホッとしました。そこからさらに難しくなっていく中で、リーグ終盤残り2節の福岡での試合は、キャプテンとして、『このクラブだけは再びJ2に落としてはいけない』と、強く思っていました。僕は浦和レッズがJ2の時に加入していますが、その苦しさや試合の難しさは、当時試合に出ていなかった自分も感じていました。そこから浦和レッズがいい時期を迎えて、ナビスコカップ、リーグ、ACLのタイトルを獲って、これだけいい思いをさせてもらっている中で、ファン・サポーターやクラブスタッフの皆さんの悲しむ顔は見たくないという思いで戦っていました。このクラブを再びJ2で戦う状況にしてはいけないという思いの中での勝利でした。先制点を取られて苦しい状況でしたし、福岡戦は、自分の中ではACL決勝よりも大きな試合だったと思っています」
(山田暢久さんがスカウトされた伊藤涼太郎選手が来シーズンから加入するが?)
「短い時間でしたが、一緒にプレーして、素晴らしい才能を持っている選手だと感じました。これから浦和レッズを代表する選手に育ってほしいと思います。彼も練習に参加する前に『遠慮しないでいきます』と言っていました。しばらく様子をみていましたが、本当に遠慮なくプレーしていたので、頼もしいと感じました。自分は彼のようなプレースタイルではないので、彼の考えていることは分かりませんが、独特なリズムを持っていますし、攻撃のいいアクセントになると期待しています。これから壁にぶつかることもあると思いますが、壁を乗り越えるだけの精神力を養ってほしいと思います。遠慮なくやっていくという言葉を忘れずに、熱い気持ちを持ってプレーしてほしいです」
(数日後にはシーズンが始まるが、チームメイトの選手たちにメッセージを)
「『一生懸命走ってください』ですね(笑)。僕と一番長くプレーしたのは平川さんだと思いますが、僕が今のチームに何かを言えるかといえば、そういう立場にはないと思います。選手は100パーセントの力を出そうとがんばっています。選手たちは、キャンプからシーズン終了まで、体力的にも精神的にも厳しい1年を送ります。その中で悔いなく戦ってほしいです。僕の今の立場ということではなく、一人のファン・サポーターとして言いたいことは、『タイトルを獲ってくれ』、『がんばってくれ』ということだけです。あとはいろいろ話をしても、みんなも分かっていると思いますから。その期待に応えられるだけの力を養ってきたので、『今シーズン優勝してください』ということだけです」
【浦和レッズオフィシャルメディア(URD:OM)】