クラブスタッフ

村瀨佳代

Kayo MURASE
クラブ
設立からの年月より長い関わり
村瀨佳代のレッズと浦和の街へのおもい
2022.6.14

30年とはどれほどの年月なのか。村瀨佳代が今、共に行動することが多い同僚は30代。彼女が生まれたころから浦和レッズは存在していた。そして、彼女が生まれるころから、村瀨は浦和レッズのスタッフだった。

「これだけ長く働くことになるとは思ってもみませんでした。当時の監督(斉藤和夫)からは『とりあえず3年やってくれればいい』と言われていましたが、お会いすると『何年目になった?』という話をします。そんな話をすると、自分でも『もうそんなに働いていたのか』と思います」

村瀨は浦和レッズが誕生する前、1990年から三菱重工サッカー部のマネージャーを務めていた。現在はスポーツダイレクターを務める土田尚史も30年以上、レッズに関わり続ける人物の一人だが、三菱重工サッカー部に加入して以降、10年余りは選手として在籍していた。

レッズが誕生する以前、プロ化に向けた準備室で共に働いていた人はもうレッズにいない。1990年に三菱重工に入社し、ほどなく三菱重工サッカー部のマネージャーを務めることになったが、マネージャーとして一緒に働いていた人物は一度レッズを離れ、レッズの非常勤取締役として戻り、取締役副社長を経て代表取締役社長になった、立花洋一である。

三菱重工サッカー部時代から30年以上、村瀨はレッズの一部であり続けた。配属された経験がないのは、運営と経理などほんの一部。あらゆる部署で、あらゆる立場として関わり続けていることもまた、村瀨が経歴の特徴の一つだ。

人事異動などによって離職する人たちもいたが、村瀨は部署や担当が変わろうとも、レッズで働き続けてきた。

「異動する際には『そんなことできないよ』ということももちろんあります。でも断ったことがないというか、人事なので断ることはできませんが、会社の歯車としてやっていくのに、自分だったらどうやっていけば良くなるのか、ということを考えてきました。『この部署は嫌だから辞めたい』と思ったことは一度もありません」

忘れられない言葉がある。

「与えられた仕事を天命とせよ」

三菱重工の入社式で当時の社長から聞いた言葉だ。

「当時の社長も不本意な部署に配属になってすごく嫌だったらしいのですが、自分として何かを考えなければいけないという知らせ、命題だと考え、後に社長に就任されました。どんな仕事でも自分なりに解釈していてやっていくことが大事だという話をされたと思います。それをずっと覚えています」

どんな仕事も天命だと思い、30年余、レッズのスタッフとして尽力してきた。思い出は挙げればきりがないほどにたくさんある。格別にうれしかった思い出もあるが、真っ先に思い出すのは大変だったことだ。

2002年、村瀨は広報を担当していた。当時はFIFAワールドカップを控えており、日本中がサッカー熱に沸いていた。当時は村瀨の他に2人の男性が広報を担当していたが、埼玉スタジアムが日本のメディアの中枢になり、2人はそのサポートに駆り出された。

メディアもほとんどワールドカップや日本代表の話題で持ちきり。レッズの広報としての仕事はそう多くないという判断もあったのだろう。

しかし、当時のメディアでは歴代日本代表監督がワールドカップの予想をする企画が展開されていた。レッズには森 孝慈、横山謙三、そしてハンス オフトと3人の元日本代表監督がいた。

「その3人の取材がものすごく多かったんです。森さんが終わったら次は横山さん、そしてオフトさんには通訳が入って…。お三方もメディアの方々も『まだー?』みたいな。まだ広報の業務に慣れていない状況で、めまぐるしかったですね」

また、チームは鹿児島県指宿市で合宿をするフランス代表とトレーニングマッチを行った。その際にも1人で現場対応を行った。

「テレビの中継やいろいろなメディアの方がいらっしゃいましたが、ホテルにはフランス代表も宿泊していたので、鹿児島県警の方がたくさんいらっしゃって、警備がすごく厳しかったことを覚えています。私たちもメディアの方も通れない場所が多くて困りました。終わった後に監督の取材をしたくても、場所がない。ゲームセンターの端っこでやりました」

ゲームセンターといえば、ひっきりなしに大きな音が鳴っている場所だ。近くにいてもお互いの声が聞こえない。最悪の環境だった。20年も前の出来事だというのに、今でも思い出すと顔がゆがむ。

「それは一番厳しかったですし、すごく印象に残っています」

また、指宿でも森の取材があった。ホテルで取材を受けるのだが、前述のように警備が厳しい。動線だと聞いていた場所が通行禁止になっているなど、移動するだけでも一苦労だった。

「最後には森さんに『どうしてもここを通してくれないんです』と泣きつきました。森さんが『じゃあわしが言ってやるよ』という感じでホテルの支配人に言ったらころっと変わり、『そんなところでコメントなんか取れないでしょ』って。私には言ったことと全然違う(笑)。森さんにはそういう情の深さと圧の強さがありましたね」

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