村瀨佳代
村瀨佳代のレッズと浦和の街へのおもい
それからもあらゆる部署を渡り歩き、現在はパートナー営業の部署に配属されており、契約書の作成が業務の一つだ。ここでもまた、新たな気付きがあった。
「一般的に『営業』と呼ばれる部署に来るまで、クラブのお金についてそれほど深く意識したことはありませんでした。今までの仕事では直接的にお金に結びつくことがあまりなかったからです。でも、たとえばパートナー企業のみなさまとの契約書は、まさにそのものです。チームが頑張って、スタッフも頑張って、その契約を結ぶことができた。みんなで勝ち取ってきたという努力の塊です」
誰かが頑張ればいいのではない。チームが好成績を残せばお金がついてくるわけでもない。営業の努力だけでは限界がある。浦和レッズという一つの組織が、力を合わせて勝ち取ったものだ。
あの日もそうだった。2004年11月20日。レッズが初めてJ1リーグでステージ優勝を決めた日。選手たちも、チームスタッフも、ファン・サポーターも、そしてクラブスタッフもみんなが泣いていたあの日。
自分がこれほど長くレッズで働くことが想像できなかったことも含め、立ち会えるとは思っていなかった優勝をその場で体感できたあの日。
「あのときは現場からは離れていたこともあると思いますが、自分はさておき、選手やチームスタッフだけではなく、今隣で泣いているこの人たちの力もあって優勝できたと思いました。みんなともそう話していたと記憶しています」
そして、チームやクラブだけではない。浦和レッズだけの力では、目標の達成はできない。存続すらもできないのかもしれない。パートナー企業、ファン・サポーター、そして浦和の街。クラブ内外に関わらず、レッズに関わる全ての人で力を合わせたい。
「浦和はサッカーが盛んな街ですから、いろいろなところで小さい子から大人までボールを蹴っていますし、そういう環境で仕事でさせてもらっていることはすごく大事だと思っています。街の中にもサッカーボールをかたどったものがたくさんありますし、それはホームタウンである浦和の方々の気持ちもこもっているところです。地元に根ざしたクラブを今後どうしていけばいいのか、まだまだ完成形でもないですし、いつになったら完成するのか分かりません。ただ、『浦和といえば浦和レッズ』と浸透してきましたが、それはクラブだけではできないことでしたし、これからもクラブだけでは成り立たないと思います」
かつて、何もしなくてもスタジアムが多くのファン・サポーターでいっぱいになっていた。驕りがあった。街でチラシ配りをしても、「お客さんが来なくなったから慌ててやっているんでしょ?」と冷ややかな声を掛けられることもあった。
「クラブだけでできていると思っていたらいけません。そういう時期はあったと思います。でも、チラシ配りにしても、今はみんなでレッズを応援してほしいという気持ちで呼びかけたいと思います。レッズがいつ試合をするかを知らない人も、埼玉スタジアムで試合をすることを知らない人もいます。そういうことを忘れてはいけません。みんなに応援してほしい。みんなと盛り上げたい。浦和の街のみんなと。そう思っています」
年齢にもよるが、自分の人生の30年後を想像できる人はそう多くない。1人の人生の30年とはそれほど長い年月だ。かつての村瀨も30年後を想像することはできず、むしろ3年すらも続けられるかどうかも分からない状況で目の前のことに必死に取り組み、気が付けば30年が経っていた。
これからも自身がどうなるか、レッズがどうなるか分からない。ただ、チームと、クラブスタッフと、パートナー企業と、ファン・サポーターと、そして浦和の街のみんなと、レッズを介して喜怒哀楽をともにしたい。そうおもい続けることだけはきっと、変わらない。
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