大橋喜与志
浦和レッズ後援会・大橋さんのうらわへの思い
浦和レッズ後援会の運営を担当する大橋喜与志さんは、浦和で生まれ育った。
プロサッカーリーグなど想像もできなかったころに幼少期を過ごしたが、浦和人らしくサッカーが好きだった。周りにもサッカー好きは多かった。
当たり前だと思っていたことが特別だったと知ったのは、浦和を離れたときだった。
30年ほど前、大橋さんは三重で働いていた際に寮で暮らしていた。部屋は2、3人が共同で生活し、テレビはない。大橋さんは1990年にイタリアで行われたワールドカップを夜中、食堂にある唯一のテレビで見ていた。
ときはJリーグ誕生以前。今とは異なり、ワールドカップといえどもテレビで見る人はそう多くはなかった。
「『なにやってんだ、お前』って言われるんですよね。『おい、あいつわざわざ夜中に起きてサッカー見てるよ』って(笑)。僕にとっては当たり前でしたし、浦和ではみんな見ていました。文化の違いを感じましたね」
サッカーだけではなく、浦和も全国的な知名度はそう高くなかった。同じく30年ほど前、名古屋で働いていた際には浦和出身だと言うと、「ディズニーランドがあるところ?」と千葉の浦安と勘違いされることもあれば、はっきりと「浦和って何県?」と聞かれることもあった。
その後、状況は一変した。浦和と言えば知らない人はいないというほどの街になった。
浦和レッズがあるからだ。
「今年も仕事で九州にいったときにサッカーの話をしてきました。『今年のレッズはどうなの?』というような話は必ずされますね。レッズのおかげで浦和も全国区になったと肌で感じます」
浦和で生まれ育ち、浦和を愛する大橋さんは1992年に青年会議所に入会した。94年には「サッカーのまち浦和委員会」で副委員長を務め、引き寄せられるように2004年から後援会に入った。後援会運営委員は個々に仕事をしながらボランティアで浦和レッズのイベントなどの企画運営をする。
94年には中山道を通行止めにして今でいうパブリックビューイングで日本代表の試合を見る企画を実行した。当時の日本代表でレッズの選手は浅野哲也だけだったが、当時は青空駐車場だった寿屋駐車場を用いたイベントスペースにはクラブの協力もありレッズの選手全員が姿を見せた。
後援会でも国内外問わずにアウェイのツアーを行うことはもちろん、2006年には『浦和レッズ黒い森キャンプ応援ツアー』と題し、前年度の天皇杯優勝に貢献したトミスラフ マリッチに会いに行った。2008年には『FCバイエルンミュンヘン訪問交流事業』と題してミュンヘンにも行った。
ただ、時代は変わっている。たとえば大橋さんが幼少期を過ごしたころの武蔵浦和は、池や川にタナゴが生息していた。街中で捕まえた蛇を飼い、祖母に「逃してこい!」と怒られたこともあった。それが今は『副都心』とも呼ばれる新興住宅地になった。
後援会もたとえばかつて1000人以上だった大納会の参加人数が近年では500人程度になっている。さらに新型コロナウイルスの影響により、昨年は「驚くような企画」を予定していたアウェイのツアーも中止になった。後援会の会議も以前のようには開けない。
「新しい人を取り込むためにはどうしたらいいか、とういうことをもっと考えなければいけません。どうやって会員を増やしていくか、試行錯誤しています」
それでもレッズへの、浦和の街への思いは変わらない。
「後援会の目的には青少年の健全な育成、スポーツを通したまちづくりに寄与する、そしてレッズが『世界一のサッカークラブになるための支援』があります。そのためにサポートし続けたいと思います。トップも大事ですが、レディースがプロ化しますし、後援会がうまく協力できないかと考えています」
レッズへの思いについて「地元愛ですよ。まさに『PRIDE OF URAWA』です」と笑う大橋さん。これからも『輪』を広げることを考えながら、レッズと共に、浦和で生きていく。
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