水沼貴史
水沼貴史氏のうらわ愛とレッズへの期待
浦和南高を卒業した後、法政大学に進学した。ここで水沼氏は初めて、浦和の街から離れることになった。それから日産自動車サッカー部、横浜マリノスで現役生活を過ごし、引退から26年が経った今も浦和には戻っていない。
実は戻るきっかけが二度あった。まずは法政大学を卒業した際、水沼氏は日産自動車サッカー部ともう1つのチームで迷っていた。そう、三菱重工業サッカー部だった。
当時、三菱重工業サッカー部は東京のチームだった。だから、仮に三菱重工業サッカー部に入部していても、その時点で浦和に戻ることはなかったが、言うまでもなく三菱重工業サッカー部は後の浦和レッズだ。
サッカーの結果と同じように人生には『たら・れば』はないが、三菱重工業サッカー部から浦和レッズで『ワンクラブマン』になっていた可能性もあった。
そしてその約10年後、Jリーグ開幕を前に水沼氏にオファーが届く。他ならぬレッズからだった。
レッズであれば田北雄気や田中真二のように、当時、Jリーグ開幕に合わせるように地元のクラブに移籍する選手は少なくなかった。
しかし、水沼氏は横浜でプレーし続けることを選んだ。
1993年5月15日、国立競技場のピッチ上でJリーグの最初のホイッスルを聞いた水沼氏が浦和に『凱旋』したのは約2ヵ月後だった。
横浜マリノスが初めて駒場で戦ったJリーグサントリーシリーズ(1stステージ) 第6節は欠場したものの、1993年7月31日、NICOSシリーズ(2ndステージ)第2節で駒場のピッチに立った。
「すごくブーイングが欲しいと思っていたんだけど、大したブーイングじゃなかったんだよね。認められていないんだと思って、もっとがんばらないといけないと思った。でも、プロになって初めて駒場でプレーしたときはうれしかったよ。Jリーグで、ここでプレーできる。『ああ、プロとして駒場でサッカーができるんだ』って。不思議な感覚というか、何とも言えないうれしさはあったね」
不思議な感覚は試合の数時間前からあった。前日にチームでホテルに宿泊し、バスで駒場に向かう。その通りは水沼氏にとって、勝手知ったる道。どこもかしこも、少年時代から何度も通った道。
だが、少年時代とは風景が違う道。そして、浦和のチームの対戦相手として通っている。試合前どころか、試合会場に向かうときから水沼氏は他の場所での試合とは明らかに違う感情を覚えていた。
水沼氏は、プロとして駒場でプレーした試合の詳細は覚えていない。サッカー選手として数多の試合でプレーしたのだから当然だろう。だが、駒場に向かう道中、そして試合開始直前のことは、30年近く経とうとしている今も忘れられない。
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