クラブ
その瞬間がどれだけ選手たちに使命を抱かせているだろうか。
その瞬間がどれだけ選手たちに勇気を与えているだろうか。
2022.5.16

その瞬間がどれだけ選手たちに使命を抱かせているだろうか。

その瞬間がどれだけ選手たちに勇気を与えているだろうか。

その決断を阿部勇樹は「チャレンジ」と表現した。

2007年に浦和レッズのユニフォームをまとうことを決めた背景には、やはりファン・サポーターの存在があった。

「浦和レッズには多くのファン・サポーターがいて、彼らが応援してくれる一方で、試合に負ければ厳しい声と目にさらされる。浦和レッズの選手たちは、そうした環境で常に戦っているんだなと。対戦相手としては、あれだけ大勢の応援があるチームに対して燃えないわけがないし、100パーセント以上の力で向かって来る。ということは、浦和レッズの選手たちは毎試合、そうした重圧とも相手とも戦っていることになる。その環境に身を置いているから(田中マルクス)闘莉王、(鈴木)啓太、(田中)達也、ハセ(長谷部 誠)といった選手たちも伸びていったんだろうなと考えたら、自分もここでプレーしたいと思いました」

2006年にJ1リーグを制したチャンピオンチームに加入した。しかも、その年、他クラブから移籍してきたのは彼一人だった。

「決して簡単なことではなかったですよ。だって、最初は応援されなかったですからね」

そう言ってクラブのレジェンドは当時を懐かしんで笑う。だから覚えていた。日付まではっきりと。

2007年4月1日——。

J1リーグ第4節の大分トリニータ戦。アウェイの地で11分に先制されながら、阿部は30分、35分と立て続けにゴールを奪った。試合は2−2で引き分けたが、加入後の初ゴールを記録しただけでなく、ゴールという結果で自分自身の存在価値を証明して見せた。

「その次の試合だったと思います。阿部という名前をコールしていただいたんです。前の試合で結果を残したことで、やっとチームの一員として認めてくれて、応援してもらえるようになったんだなと。そのきっかけの日だと思っていたので覚えています。だからこそ、チームのために戦えなければ応援もされないだろうし、プレーで見せていかなければ応援されないクラブだということは、ずっと感じながらプレーしてきました」

その年の11月14日、浦和レッズは初めてアジアを制覇した。埼玉スタジアムでAFCチャンピオンズリーグのトロフィーを手にしたときには、こう思ったという。

「この決断は間違いじゃなかったんだな」

昨季、ユニフォームを脱いだときにも阿部は同じことを思っていた。

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