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相川宗一さんへの感謝

1月25日(月)、浦和市長を10年間、さいたま市長を8年間務められた相川宗一さんが78歳で亡くなられた。
心からご冥福をお祈りすると共に、浦和レッズ約30年の歴史における相川市長の存在を振り返ってみたい。

1991年2月、Jリーグ発足時に参加する10クラブ、いわゆる「オリジナル10」が発表された。その中に、三菱サッカー部も含まれていた。
当時、三菱は東京のクラブであり、日本リーグのホームゲームも東京を中心とした関東のスタジアムを使用していたが、東京にはJリーグの基準に合致するスタジアムが国立競技場以外にはなく、プロ化にあたり施設改修の是非を含めてホームタウンとなる都市を探していた。そして1990年の秋、浦和にプロサッカーチームを誘致する活動を行っていた「浦和プロサッカー球団を作ろう会」と合意し、浦和をホームタウンとしてプロに参入することを申請。上記の決定となった。

三菱はそれまでも年に何度か浦和市駒場運動公園競技場で試合をしており、浦和出身の選手も何人かいたが、浦和との縁はそれほど濃いものではなかった。プロ参入が認められると同時にやらなければならないことは、サッカー関係者、自治体関係者、企業、市民に「浦和のクラブ」として認知されるための活動、そしてホームスタジアムとなる駒場競技場をJリーグ仕様に改修してくれるよう市に要望することだった。

一方、「オリジナル10」発表から2ヵ月経った1991年4月21日、第12回統一地方選挙で、相川宗一さんが浦和市長に当選した。5期目を目指した現職を破っての初当選だった。レッズの種が浦和に播かれたのと、相川宗一浦和市長の誕生は、ほぼ同時期だったのだ。

当時、全国の自治体の中でスポーツはほとんど「社会教育」の一環として扱われ、三菱(以下「レッズ」に統一)が浦和市と折衝する際の市側の窓口も、当初は社会教育部だった。スタジアムの改修は前市長の時期に決定されていたが、レッズを認知してもらうために浦和に対して働きかけなければならないことは山積みであり、しかも多岐に渡っていた。そこで相川市長は、市長直轄である政策審議委員の1人をレッズ担当として窓口にしてくれた。これにより、レッズと浦和市の連絡は非常にスムーズになった。

93年4月、駒場競技場の改修が終わり、5月にJリーグが開幕した。
Jリーグ人気は全国的に沸騰し、中でもサッカーのまち浦和の人たちは地元でプロの試合が見られるのを心待ちにしていたから、レッズの入場チケットは発売と同時に売り切れた。当時の収容人数は立ち見を含めて12,000人となっていたが、安全面からレッズは発券を約1万枚に抑えた。それでも自由席の観客がバックスタンドの通路にあふれる状態で、駒場競技場は常に超満員となった。さらにスタジアムの外にはチケットがなくても来場する人が多く、フェンスの隙間から試合をのぞく人、フェンスによじのぼって試合を見る人、果てはバックスタンド横の立木に昇って見る人など、「レッズのチケット不足」は社会問題にまでなった。

Jリーグが定めていた「15,000人収容のスタジアム」という基準を駒場競技場が満たしていないことで、レッズは何度か改善勧告を受けた。クラブも浦和市にスタンドの増設を要望していたが、2度目の改修となると簡単ではなかった。それが実現したのは、多くの市民からの「レッズの試合が見られる大きなスタジアムを」という声を受けて、相川市長が決断したからに他ならなかった。
当時の浦和市は、インフラ整備などの課題も多く、Jリーグ開幕から1年も経たないうちに駒場を再改修すると決定するのは自治体の首長として非常に勇気がいることだっただろう。駒場競技場は収容21,500人、大型映像装置付きの駒場スタジアムに生まれ変わった。しかも94年7月からわずか1年間という短い期間で完成を見た。
古くからのファン・サポーターでも「レッズを生で見るようになったのは95年」と言う人が非常に多い。「スタジアムでレッズを応援する」人の数が格段に増えたことは、たくさんの熱いサポーターが新たに生まれていく契機でもあった。レッズ史に残る転換は、まさに相川市長の英断により生まれたのだった。

8月16日に行われた駒場スタジアムのリニューアルオープンセレモニーで相川市長は「浦和レッズはいま首位です!」と高らかに語った。
4日前の第2ステージ開幕戦をレッズが6-0で快勝したことを受けてのもので、まだ1節だけの結果だったが、前年まで2年連続年間最下位のレッズがこの年躍進していること、そしてレッズの試合を多くの市民に見てもらえるスタジアムが完成したことを、心から喜んでいたのだろう。

相川市長は、学校でサッカー部に所属していたことはなかったという。しかし、浦和生まれの人としてサッカーに対する誇りと愛情は強かった。そのシンボルとしてレッズが大好きだった。駒場スタジアムに来られることも少なくなかったが、試合に行かなかった翌日は、レッズファンの市職員に「昨日はどうだったんだ」と尋ねた。結果はもちろん知っており、試合内容を聞きたかったのだ。レッズの話が職員とのコミュニケーションツールになっていたらしい。

話はさかのぼるが、93年2月にレッドダイヤモンズ後援会(現在「浦和レッズ後援会」)が設立された。
同会の会則で、会長を浦和市長が務めることになっており、相川市長は同後援会の初代会長に就任した。会長職にある間、後援会の総会や選手の激励会、あるいはクラブと後援会が共催する「レッズフェスタ」などの大きなイベントにはほとんど出席していた。そこでの挨拶はいつも、決して形式ばったものではなく、日頃からレッズを良く知っている人でなければ語れない、ファンの一人としての言葉だった。

他方で、浦和市長としてレッズに言うべきことは言った。
たとえばレッズがJ2に降格したとき、今後はより地元に対する活動を強化した方がいい、とクラブにアドバイスした。レッズがホームタウン部を新設したのは、その時期からだ。またクラブが2002年に「まずはチームの土台作りに尽力し、その後に優勝を目指す」と「3ヵ年計画」をうち出したときは、「プロチームが優勝を目指さないのはおかしい」と当時のクラブ幹部と激論を交わしたという。

レッズの練習場になっている大原サッカー場の整備やレッズの使用、あるいはその後の本格的なクラブハウス建設も、相川市長時代に実現したものであり、まさにレッズが強くなるための基礎づくりを強くサポートしていただいたことは間違いない。
2003年のJリーグカップ初戴冠に始まるタイトル獲得や、2007年のACL優勝でアジアに「URAWA」の名前をとどろかせたことは、市長在任中に少しでも相川さんに恩返しができたかな、と思っている。

あらためて相川宗一さんに、感謝を申し上げたい。

(浦和レッズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム 清尾 淳)

相川宗一さんへの感謝

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