04.〝嫌な〟阿部勇樹へ
「きっと、マジで性格が悪いんだろうな」
当時、ジェフ市原(現ジェフ千葉)と対戦すれば、いつも相手ボランチにてこずらされていた。チームのバランスを考えて舵取り役のようなプレーを見せれば、前線まで上がってきてゴールに絡む。センターバックである自分としては、嫌なところばかりを突いてきて、嫌なところばかりに顔を出してくる彼を抑えるのは至難の業だった。あまりに嫌なプレーばかりをするため、面識がなかった当時は、性格すら悪いのではないかと疑ったほどだった。
その〝嫌な選手〟こそが阿部勇樹だった。
出会いはジーコジャパン時代に遡る。当時ジェフでプレーしていた羽生直剛と、家族ぐるみの付き合いをしていたこともあり、僕に向かって阿部が「羽生さんからいろいろと聞いてきました」と、挨拶してくれた。
日本代表には先に選ばれていたとはいえ、ユース在籍時の1998年にJリーグデビューを飾っていた阿部は、プロ歴でいえば先輩。年下ということは分かっていたけど、どこかで「あの阿部勇樹か」という思いが働き、壁を作ってしまっていたような気がする。
そんな嫌な選手が、頼もしい選手になったのは2007年だった。
浦和レッズは前年である2006年にJ1初優勝を成し遂げた。自分自身もCBとしてJ1で27試合に出場し、少なからずタイトル獲得に貢献した自負はあった。選手としてはクラブに評価してもらえるまたとない機会。当時は代理人をつけることなく、クラブと直接、交渉していた僕は、なんとか良い条件を引き出そうと、意気揚々とテーブルに着いた。
だけども、クラブの表情は渋い。J1で優勝したこと、レギュラーとして貢献したこと、いくらプラス材料を並べてみても、首を縦には振ってもらえなかった。一向に希望の条件になる気配がなく、業を煮やした僕は噂になっていた話題に触れた。
「阿部を獲るからですか?」
聞けば、「そうだ」とうなずかれた。思わず「なら仕方ないですね」と答えていた。
「阿部を獲るなら我慢しますよ」と……。
加入してきた阿部にも早い段階で、この話をしたけど、本人は「そんなわけないでしょー」と言って笑っていた。僕からしてみたら阿部が浦和レッズの一員になるために、どれだけ自分が我慢したかという気持ちが半分と、彼が早くチームに馴染めるようにいじるための口実だったというのが半分だった。
それは前年にJ1で優勝したチームに加入したプレッシャーを、彼なりに感じていることが何となく分かっていたからだ。感情や表情には出さずとも、浦和レッズのファン・サポーターに認められたい。その思いは同じピッチに立ち、同じグラウンドで練習し、ともに時間を過ごしていれば、ひしひしと感じられた。
だからこそ、阿部が加入した2007年に、AFCチャンピオンズリーグで初優勝し、ともに喜びを分かち合えたことは、自分のキャリアにおいても最高の瞬間であり、最高の思い出だ。それが今日の浦和レッズが常にアジアを目指し、アジアを意識する契機になったと思えばなおさらだ。
対戦したときはあれほど嫌だった選手に、頼もしさを感じるのには、それほど時間は必要なかった。ボランチとセンターバック——僕の1列前でプレーする阿部は、指示を出さなくても、言葉を発さなくても、自分がいてほしいところにいてくれて、出ていってほしいところに出ていってくれる選手だった。ひとことで言い表せば、気が利く選手。その背中を見るたびに、自分の給与を我慢しただけのことはあったと、常に感じていた(笑)。
気がつけば、阿部とはいつも一緒に過ごすようになっていた。遠征のときは、移動中の新幹線や飛行機で隣の席は当たり前。食事のテーブルも一緒ならば、食後のコーヒーを飲む時間もともに過ごした。朝も時間があれば、連れだって散歩にいっていたように思う。いつだったか、あまりに四六時中一緒にいるものだから、阿部の奥さんに「また、ツボさんと一緒にいるの?」と呆れられたことがあったくらいに……。
特に覚えているのは、当時はまっていた「内P」(内村プロデュース)をふたりでいつも一緒に見ていたこと。ひとつの画面をふたりでのぞき込み、ひとつのイヤホンを片耳ずつ分け合って、クスクスと笑っていた。サッカーの話はそれほど多くなかったように、笑いのツボや感覚が合っていたのかもしれない。それくらい「自然に」という表現がしっくりと思えるほど、自分にとって自然に仲良くなり、そして欠かせない存在になっていった。
周囲に物事を相談しない自分が、妻以外で彼にだけ打ち明けたことがある。それは日本代表監督を務めていたイビチャ オシムさんが倒れ、岡田武史さんが後任に就いていた2008年のことだ。
自分は生意気にも、自ら日本代表から退くことを決めた——。
それを代表合宿中に阿部に伝えたとき、あまりいい反応ではなかったことも覚えている。阿部からしてみたら、「そんなことを自分に言われても……」という思いがあったかもしれない。でも、僕は阿部が決していい返事をしないことも分かっていた。ただ、自分なりに悩み、考えて出した結論を、阿部にだけは知っておいてほしいという勝手な思いがあった。
自分が浦和レッズを出て、別のチームでプレーするようになってからは、サッカーの話をする機会も増えた。自分が「選手としての死に場所がまだ見つからない」と言えば、「ツボさんは40歳までプレーするでしょ」と言ってくれた。自分がその40歳までプレーできたのは、阿部の言葉が心に残っていたからかもしれない。同時に40歳で選手を引退したときには「やってやったぞ」と心で思ってもいた。
阿部もまた40歳で選手というキャリアに区切りをつけたことには、どこか運命めいたものを感じている。
引退するという報告を受けたときは、不思議とさみしさが心の多くを占めることはなかった。ことあるごとにいろいろな話をしてきただけに、阿部もまた、自分のなかで選手に区切りをつけることができたんだなと思うことができたからだ。
ただ、自分自身も長くプロサッカー選手を続けさせてもらったからこそ、自分でやめどきを決断できる幸せを、きっと彼自身も感じていることと思う。多くの選手がケガでプレーを続けることが難しくなったり、プレーする環境がなくなったりして引退を決断していくなかで、自分でやめどきを選べたこと、なおかつ浦和レッズでスパイクを脱ぐことができたことはうらやましくもある。
これは本人に一度も言ったことはなかったけど、自分が試合に出られず、阿部がセンターバックとして出場していたときには、いつも嫉妬していた。阿部勇樹という選手はボランチでプレーしてこそ、最大限に能力を活かせると思っていた。そのポジションで阿部をプレーさせることができない自分の不甲斐なさと向き合いつつ、センターバック一筋で勝負してきた自分が負けるわけにはいかないとも思っていた。その思いが、自分を成長させ、自分のキャリアを引き延ばさせてくれたとも思っている。
最高のチームメートであり、最高のライバルであり、最高の友人にありがとうの感謝と、お疲れさまという言葉を伝えたい。
阿部勇樹は浦和レッズの生え抜き選手でもなければ、浦和レッズ一筋で過ごしたわけでもない。だが、紛れもなく浦和に染まり、浦和の血が流れている選手だった。
そして——。
僕は阿部勇樹という選手が大好きだった。
ずっと自分の先を走り、背中で奮い立たせてくれる存在だったから、一度くらいは先輩風を吹かせてみたい。
「やっと俺に追いついたな」
次のステージでもまた、ともに歩けることを期待して——。
- 浦和レッズOB
- 坪井 慶介