阿部勇樹 引退特設サイト

History

年号を選択する

2007

22

2007年1月26日、埼玉スタジアムボールルームに阿部勇樹の姿があった。
「相当な決意を持ってここへ来ている。デビューしたときのような気持ちで頑張りたい」

1998年、高校2年生でJリーグデビューし、2003年からはキャプテンとしてジェフ千葉のJリーグカップ2連覇をはじめ、リーグ戦上位争いの立役者となった男が浦和レッズの一員となった日だった。23歳で大きな転機を迎えた。

レッズでの公式戦デビューはXEROX SUPER CUPのG大阪戦。シーズン初戦で先発すると、9月15日、J1リーグ第25節を警告累積で出場停止になるまで、日本代表活動中をのぞき全ての公式戦で先発を続けた。鈴木啓太とのダブルボランチはDF陣と力を合わせてリーグ戦34試合で28失点という強固な守備を生み出した。さらにチーム事情に応じて3バックの一角、右ウイングバックも高いレベルでこなし、レッズでの1年目は公式戦52試合出場6得点を記録した。

中でもAFCチャンピオンズリーグ(ACL)は、レッズにとっても阿部にとっても初めての挑戦だったが、12試合全てに先発した阿部はグループステージで2得点、決勝第2戦でも1得点。初のアジア制覇を牽引した1人だった。

Jリーグベストイレブンに選出され、FIFAクラブワールドカップ3位にも貢献。阿部勇樹はレッズ移籍1年目から、チームに欠かせない中心選手となった。

しかしリーグ戦は優勝寸前で失速。ACL&Jリーグのダブル優勝を逃したことは生涯の悔しさとなった。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
52 / 6
J1リーグ
33 / 3
リーグカップ
0 / 0
天皇杯
1 / 0
ACL
12 / 3
FCWC
3 / 0
その他
3 / 0

獲得タイトル

Jリーグ ベストイレブン
AFCチャンピオンズリーグ

国際大会

AFCアジアカップ2007

2008

22

浦和レッズは前年達成できなかった、ACL+Jリーグの2冠という目標を掲げてスタートした。阿部勇樹にとっても、ダブル優勝はサッカー選手として大きな夢だった。

だが、Jリーグ開幕戦から連敗スタートとなったレッズは、前年からチームを率いていたホルガー オジェック監督との契約を解除した。開幕2試合での監督交代はJリーグ史上最速だった。「選手と監督の信頼関係が崩れている」とクラブは判断した。

阿部は衝撃を受け、試合に出場していた選手として責任を感じていた。同時にその責任を果たすためには、コーチから昇格したゲルト エンゲルス新監督のためにも、このシーズンで結果を出すしかないと誓った。

リーグ戦は出場停止の1試合以外すべて先発フル出場。前年に倍する6ゴールを挙げた。ACLは準決勝で敗れたがそこまでの4試合にフル出場した。チームは一時Jリーグ首位にも立ったが終盤、優勝争いから遠ざかった。

前年、日本代表戦とも合わせ63試合に出場するフル回転だった阿部は、2年目に入りチームメイトと試合以外でもさらにコミュニケーションを取るようになった。特に年齢が下の選手たちと練習の前後に過ごす様子が見られた。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
39 / 6
J1リーグ
33 / 6
リーグカップ
1 / 0
天皇杯
1 / 0
ACL
4 / 0

2009

22

フォルカー フィンケ監督が就任。攻守にわたり選手が連動しながら、長短のパスでボールをつなぎ、ゴールを狙う戦術を浦和レッズに導入した。

それまでレッズのサッカーに「堅守速攻」のイメージを抱いていた阿部勇樹は、楽しみながら新しいサッカーに取り組んだ。チームは開幕戦こそ落としたものの、第2節から9試合無敗(7勝2分け)を続け、一時は首位にも立ってリーグ戦半の17節を2位で折り返した。

チームの変貌に阿部も大きな役割を果たした。第2節でチームの初ゴールを挙げて連勝のきっかけを作ると、プロ入り後初めてリーグ戦全試合に先発し、その過程でJ1通算300試合出場も達成した。

またこの年、山田直輝、原口元気らアカデミー出身の新人が多く加入したが、「自分が(市原で)トップに上がったとき、年上の選手と話しにくかったので」と、若手とのコミュニケーションを積極的に取り続けた。

代名詞のように言われていたFKからのゴールは、レッズ加入後2年間なかったが、この年から居残りでシュート練習を再開し、ホームの第28節で見事に決めて見せた。古巣であるジェフ千葉からの、逆転勝ちの契機となる同点弾だった。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
38 / 2
J1リーグ
34 / 2
リーグカップ
4 / 0
天皇杯
0 / 0

2010

22

2010年は、阿部勇樹のサッカー人生に、ひときわ濃く刻まれているシーズンだろう。

6月11日から開催された、2010 FIFAワールドカップ南アフリカに日本代表として出場。

大会前にレッズで行われた記者会見で色紙に「驚かす」と書いた阿部だが、自身のレギュラー出場がサプライズの一つだった。体調不良のオシム監督からチームを引き継いだ岡田武史監督が、アンカーを置くシステムに変更し、そこで起用された阿部は日本の全4試合に先発し、大きな力を発揮した。

決勝トーナメント1回戦でパラグアイにPK戦の末敗れ、準々決勝進出は果たせなかったが、自国開催の2002年大会と同じベスト16進出は日本サッカーの前進を示すものでもあり、戦前の予想を覆すものでもあった。

そして日本に帰国して約1か月後、阿部のレスター・シティ(イングランド)移籍が発表された。海外でのプレーは、ワールドカップ出場と同じく、小さいころからの夢だった。

移籍決定が8月末で、ホームゲームがなかったため、スタジアムでのセレモニーなどができなかったが、チームが天皇杯2回戦(東京国際大戦)に勝利した後、会場の駒場スタジアムに姿を見せ、場内を一周。ファン・サポーターに別れの挨拶をした。スタンドから掛けられた多くの励ましと共に「また浦和に戻って来いよ」という声が阿部の耳に届いていた。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
22 / 4
J1リーグ
20 / 3
リーグカップ
2 / 1

国際大会

東アジアサッカー選手権2010
2010 FIFAワールドカップ南アフリカ

2012

22

レスター・シティ(イングランド2部)に1年半所属した阿部は、2012シーズン開始から浦和レッズに復帰した。その大きな理由の一つは、自分がベストな時期にまた日本でプレーしたいという思いと、このシーズンから就任したミハイロ ペトロヴィッチ監督と「一緒にやりたい」ということだった。「復帰した」というよりは「新しいチームに来た」と思っていた。そして「帰ってきただけでは意味がない。結果を出す」と心に誓った。

ミシャ監督も新しいサッカーをレッズに浸透させるにあたり阿部を高く信頼し、キャプテンを任せた。以前はレッズで副キャプテン、古巣のジェフでもキャプテンを務めていたので不思議はないが、1年半の海外生活を経て、より人間関係を大事にするようになっていた。ときどき選手の食事会を主催し、そこでは若手に自分のことを「阿部」と呼び捨てにさせるなど、チームの一体感を醸成するために心を砕いた。

イングランドのシーズン中に移籍したため、オフはわずかな期間しかなかったが、リーグ戦全34試合をはじめ、公式戦41試合先発はチーム最多。質・量共にフル回転の活躍だった。

そして阿部の気持ちをレッズに向けさせたもう一つの理由。それは埼スタを満員にするファン・サポーターの存在だった。2010年9月5日、天皇杯終了後の駒場スタジアムでお別れの挨拶に場内を一周した際、「また帰って来いよ」と掛けられた声が、ずっと頭に残っていたのだった。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
41 / 4
J1リーグ
34 / 4
リーグカップ
4 / 0
天皇杯
3 / 0

2013

22

浦和レッズは5年ぶりにACL出場を果たした。阿部は以前「前回優勝したとき(2007年)は、ACL出場権を得る戦いに自分は関わっていなかった」と語ったが、2012年はJリーグ全34試合に出場。ミシャ監督就任1年目で3位というチームの躍進をキャプテンとしても牽引し、再びアジアへの挑戦権を得た。

5年ぶりのアジアサッカーのレベルは格段に上がっており、初戦で広州恒大に0-3の大敗を喫し、6年前は2勝した全北現代にも1分け1敗。勝ち点10を挙げたがグループステージは突破できなかった。だが、この経験がレッズをACLの舞台で強いチームに成長させた。

この年、レッズのJリーグ年間総得点は66点でリーグ最多だった。しかし総失点も56と多く、大事なところで勝点を落とした。特に第31節の仙台戦でアディショナルタイムに追い付かれ、首位に立てるチャンスを逃してからは3連敗し、6位でJリーグを終えた。

シーズン終了後、阿部は「これほど悔しいシーズンはなかった」と悔しさをにじませた。攻撃時は素晴らしい連係でゴールを奪う場面が増えた一方、それがうまくいかないときに焦ってバランスを崩し失点することがあった。阿部は「もっと“がまん”が必要だ。耐えるときはみんなで耐えて、最後に勝利をつかめるようにしたい」と雪辱を誓った。

2013年は個人として、J1通算400試合出場を達成したシーズンでもあった。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
44 / 7
J1リーグ
33 / 6
リーグカップ
5 / 0
天皇杯
0 / 0
ACL
6 / 1

2014

22

2014年も阿部にとって忘れられないシーズンだろう。

第4節でJリーグ史上初めての無観客試合を経験。キャプテンとして試合前に「差別撲滅宣言」を読み上げた。

ネガティブなスタートとなったが、チームは逆に一つにまとまった。周囲が苦しんでいる今、自分たちが頑張らないと、という思いだったのかもしれない。

リーグの年間総失点は前年の56から32に激減。守備が安定したことで勝ち点が伸びていき、第11節で首位に立つとそれ以降、2位より下がらず優勝戦線を走り続けた。しかし終盤に失速して王座を逃した。優勝は目前だったが、第33節のアウェイ鳥栖戦は、69分に先制ゴールとなるPKを阿部が決めたがアディショナルタイムに追い付かれるという悔いの残る試合となった。

阿部はリーグ戦の34試合すべてに90分フルタイム出場。これは生涯で初めての偉業だった。それまで退場や出場停止、ケガなどが原因でわずかにフルタイム出場に届かなかったが、より体調管理や心身のケアを重視することで、3060分出場を達成したのだった。

そして公私ともに最も親しかった坪井慶介がこの年で契約満了となり、チームを去った。親友を優勝で送り出せなかったことが阿部にとって悔恨の極みだっただろう。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
42 / 6
J1リーグ
34 / 4
リーグカップ
7 / 1
天皇杯
1 / 1

2015

22

2015シーズン、J1に2ステージ制が再導入された。

浦和レッズは、真の王者たる年間最多勝ち点を目標に掲げてシーズンに入ったが、2年ぶりに出場したACL2試合とスーパーカップという、リーグ開幕前の公式戦3試合で敗れた。ACL第2戦が行われた3月4日、埼スタ。公式戦3連敗に憤るサポーターから大ブーイングが発せられたとき、キャプテンの阿部が前に進み出て必死の形相で語った。

「まず一つ勝とう。一つ勝つまで一緒に闘ってくれ」

叫ぶような口調だったが、心の底からの訴えであり、サポーターもそれを受け入れた。

そしてJリーグ開幕。アウェイの湘南戦で逆転勝ちを果たすと、ホームの第2節では83分に阿部が決勝ゴールとなる、火の吹くような弾道のミドルシュートを決め、連勝した。阿部の訴えはサポーターのみならず選手一人ひとりの心にも火を付け、1stステージを17試合無敗、うちホーム9試合全勝という好成績で優勝する。ステージ最終節の試合後、優勝報告に立った阿部は「まだ通過点。これからも一緒に闘っていこう」と呼びかけた。

残念ながら年間勝ち点では2位となり、チャンピオンシップでも準決勝でG大阪に惜敗し、年間3位という扱いになった。また9年ぶりの優勝を目指した天皇杯でも決勝でG大阪に敗れ、タイトル獲得にあと少し届かなかったシーズンだった。

阿部は前年に続きリーグ戦すべて、さらにJリーグカップ、天皇杯など国内大会全の47試合にフルタイム出場した。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
47 / 6
J1リーグ
34 / 3
リーグカップ
2 / 2
天皇杯
4 / 1
ACL
5 / 0
その他
2 / 0

獲得タイトル

J1リーグ 1stステージ

2016

22

J1リーグが2ステージ制になって2シーズン目。浦和レッズは前年獲得した勝ち点72を超えることを目標にした。それはもちろん年間勝ち点1位の座に就くことに他ならなかった。

1stステージは3位に終わった。ACLでラウンド16に進んだが、アウェイのFCソウル戦で延長PK戦の末に敗れ心身の疲労が残る中、ACL勝ち上がりによる過密日程も影響して終盤近くで3連敗を喫したのだ。阿部も「この時期が最も苦しかった」と語っている。

だが、そこから2ndステージ第8節まで通算10戦無敗(9勝1分け)というV字回復を見せた。そして、その勢いのまま2ndステージ優勝と年間勝ち点1位を達成した。勝ち点74はJ1が18チーム制になって以降、それまでの歴代最多だった。チャンピオンシップ決勝ではアドバンテージがあまりない条件の中、鹿島に敗れたが、阿部は「相手に(第2戦で)2点目を与えなければよかったのだから、がまんということをチームで徹底すべきだったかもしれない」と自らの反省しか口にしなかった。

一方、YBCルヴァンカップでは、決勝でG大阪をPK戦の末に下して、初優勝を果たした。勝利の瞬間、阿部は一人だけホームのゴール裏に向かって走り、「長い間、待たせてしまって、みんなの喜んだ様子を目に焼き付けたかった」とその理由を語った。レッズにとって9年ぶりの、ミシャ監督にとっては初のビッグタイトル。阿部自身はJリーグカップを掲げるのは通算3度目だった。

そして、3年連続Jリーグ全34試合フルタイム出場を果たし、2ndステージ第14節では史上最年少でのJ1通算500試合出場も達成したのだった。また通算4回目、9年ぶりとなるJリーグベスイレブンに選ばれた。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
47 / 3
J1リーグ
34 / 1
リーグカップ
4 / 1
天皇杯
1 / 0
ACL
6 / 0
その他
2 / 1

獲得タイトル

J1リーグ 2ndステージ
Jリーグカップ
Jリーグ ベストイレブン

2017

22

浦和レッズは、前年の悔しさを晴らすかのようなスタートを切った。

ACLでは初戦を4-0、第2戦を5-2と大勝。Jリーグは第7節で首位に立った。阿部はACLでメンバー外になることはあったがJリーグでは変わらず先発を続けていた。

だが、そこから2ndステージ第8節まで通算10戦無敗(9勝1分け)しかし第8節からリーグ戦の負けが増え始め、7月30日、クラブはミシャ監督の解任に踏み切った。激震だった。

「ふだんならあり得ない失点が増え、がまんしきれない試合が多くなっていたと思う。キャプテンを任されていた身として申し訳ない」と阿部は悔しがった。柏木や槙野ら、広島時代からの選手だけではなく、阿部も“ミシャ・チルドレン”の1人だった。

惜別の情に浸る余裕はなかった。堀 孝史新監督の下、Jリーグでは連敗を止めたが成績を大きく向上させることはできなかった。しかしACLではミシャ監督指揮下で逆転勝利したラウンド16に続いて、準々決勝でも大逆転劇を演じるなど「ホームで強いレッズ」を築き上げて決勝に進出。決勝の相手、サウジアラビアのアルヒラルは強豪だったが、アウェイで1-1、ホームで1-0という結果を収め、2度目のアジア制覇を果たした。7試合のホームゲームをすべて勝利したのはACL史上初めての快挙だった。

ACLトロフィーを高々と掲げた阿部は「ラウンド16の逆転勝利以降、ホームでの試合に自信が持てるようになった。サポーターとチームが一つになって戦って獲ったもの。これが浦和レッズ」と語った。

また前年のルヴァンカップ優勝で出場権を得たスルガ銀行チャンピオンシップは、飛行機事故で選手の半数を失ったシャペコエンセ(ブラジル)との難しい試合となったが、試合終盤に獲得したPKを阿部がしっかりと決め、新たなタイトルをクラブにもたらした。

個人の記録としてはJリーグ第14節で途中交代し、フィールドプレーヤーでは歴代1位だったJ1連続フルタイム出場記録が139試合で途切れたが、「連続記録にはあまり興味がない」と、平然としていた。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
50 / 4
J1リーグ
33 / 3
リーグカップ
1 / 0
天皇杯
1 / 0
ACL
11 / 0
FCWC
2 / 0
その他
2 / 1

獲得タイトル

スルガ銀行チャンピオンシップ
AFCチャンピオンズリーグ

2018

22

2018シーズンも浦和レッズが上下に大きく揺れ動いた年だった。

前年、チームをACL二度目の制覇に導いた堀 孝史監督が公式戦8試合を終えた4月2日に解任。後任監督が決まるまで、レッズユース監督を務めていた大槻 毅氏が暫定監督として指揮を執った。4月22日、かつて鹿島でJリーグ3連覇を果たしたオズワルド オリヴェイラ監督が就任。ここから新たなチーム作りが始まった。

阿部は前年でキャプテンを降りたが、後輩の手本となる振る舞いは変わらず、2018FIFAワールドカップ ロシア大会期間中に行なわれた静岡キャンプでも、練習中は意識して若手の中に入って行った。

前年までに比べ試合出場は減ったが、8月11日のJ1リーグ第21節・鳥栖戦の交代出場でJ1通算550試合出場を歴代最年少で達成。オリヴェイラ監督は「私にとって残念なのはもっと若いころに阿部と出会い、仕事をする機会がなかったことだ」と語り、阿部を称賛した。

シーズン終盤には先発が増え、リーグ戦では最終節で勝利し順位を5位まで上げることに貢献。そして準決勝、決勝の日程が早まった天皇杯では準決勝の鹿島戦に途中出場、12月9日の決勝では先発フル出場し、自身初の天皇杯優勝を果たした。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
37 / 1
J1リーグ
27 / 1
リーグカップ
5 / 0
天皇杯
5 / 0

獲得タイトル

天皇杯

2019

22

2年ぶりのACL出場。浦和レッズに前々年優勝の強みは残っていた。一時グループステージ1勝1分け2敗で3位となったが、5月21日の第6節で北京国安を下し、ラウンド16に進出した。

一方、その8日後、レッズはオズワルド オリヴェイラ監督との契約を解除し、後任として前年の暫定監督終了後、この年の3月までヘッドコーチを務めていた大槻 毅氏に託した。実に3年連続でシーズン中に監督が交代することとなった。

阿部はこの年から出場機会が減少、最終的にリーグ戦で11試合、ACLでは6試合の出場にとどまった。

しかしACL準決勝の広州恒大戦はホーム、アウェイとも出場。アルヒラルとの決勝はアウェイでベンチ、ホームで途中出場だった。3度目のアジア制覇はならなかったが、ACL決勝に3度進んだJクラブはレッズだけで、3度出場した日本人選手は阿部だけだった。また2007年はACL出場が決まっていたレッズに移籍してきた形だが、2017年と2019年の出場は、それにふさわしい結果を収めるのに阿部自身が前年に大きく関わっていたという説明は不要だろう。

一方、リーグ戦では勝ち点がなかなか積み上がらず、J1残留が確定したのは最終節だった。前回、残留争いをした2011年、阿部はレッズを離れていたが、ジェフ時代に何度も経験しており、この2019年終盤には「一人ひとりが責任を持ってプレーすることが必要」と語っていた。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
22 / 0
J1リーグ
11 / 0
リーグカップ
1 / 0
天皇杯
3 / 0
ACL
6 / 0
その他
1 / 0

2020

22

シーズン開幕から2試合を消化した時点で新型コロナウィルス感染予防および拡散防止のためJリーグ公式戦が中止。そして練習自体も休止となった。7月に試合は再開したが、入場者はゼロから始まり5千人や1万人に人数が制限されて行われた。

阿部は右ふくらはぎを痛めて中断明けから別メニューが続き、練習に合流したのは11月下旬だった。12月12日、第32節・湘南戦の後半29分、このシーズン初めてピッチに足を踏み入れた阿部は、ファン・サポーターから大きな拍手を浴びた。

リーグ戦終盤3試合の出場に終わった阿部だが、自粛期間中にさいたま市が行っていた、コロナ感染予防のための防災無線アナウンスを引き受けたり、クラウドファンディングのリターンとして、子どもたちとオンライン交流会行ったりとピッチ外ではさまざまな活動に取り組んでいた。「子どもたちとオンラインで交流する企画などは、コロナ禍でなくても実施できるのではないか」と新たなコミュニケーションのヒントを得たかのようだった。

「試合結果も含め我慢することが多くストレスの溜まる年だったが、これも無駄にせず先につなげていかなくてはならない」とシーズンの終わりに語っていた。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
3 / 0
J1リーグ
3 / 0
リーグカップ
0 / 0

2021

22

新しくリカルド ロドリゲス監督が就任し、選手も約3分の1が入れ替わったシーズン。始動からキャンプを含めた練習も感染防止措置が取られ、試合も入場制限がある状態で開幕を迎えた。

4年ぶりにキャプテンとなった阿部はこの年、プロになってから背番号と同じ22年目を迎えた。開幕前には「振り返ると、ここまでやってこられたんだなと思う」と感慨深げだったが、このときからあるいは現役最後の年になるかもしれない、と感じていたのだろうか。

レッズは阿部の活躍でシーズンの幕を開けた。Jリーグ開幕のホームFC東京戦で、セットプレーのこぼれ球を蹴り込み、チーム初得点となる先制ゴールを挙げた。第3節のホーム横浜FC戦ではPKを決めて2点目。チーム得点としても2ゴール目だった。5月9日の第13節仙台戦では、2018年8月19日の清水戦以来3年ぶりにFKから直接ゴールを決めた。早くもリーグ戦で、それもホームゲームばかりで3得点、“伝家の宝刀”FK直接ゴールも飛び出したとあっては、「引退」の二文字を想像する者はいなかった。

しかし8月9日、第23節・札幌戦の途中出場を最後に試合のメンバーから名前がなくなる。練習でも別メニューが続いた。

10月半ばには練習に復帰したが、そのときにはすでにシーズン限りでの引退を決意し、その旨をクラブにも伝えていた。

お世話になった人たちには自ら引退を報告したい。
その思いをクラブも尊重し、引退の情報は約2ヵ月間、秘された。
「クラブからの重大なお知らせ」
レッズ始まって以来の、内容を伏せた記者会見が11月14日に開かれ、そこで約1時間、阿部は途中何度も声を詰まらせながら、22年間の思いを吐露した。
翌日、大原の練習場では、晴れ晴れとした表情の阿部勇樹がいた。

それからは、さまざまなメディアの取材にも応じつつ、引退へのカウントダウンが始まった。

11月27日、ホーム最終節。試合が終わった後、今季で契約満了ととなったトーマス デン、槙野智章、宇賀神友弥に続いて、挨拶に立った阿部は、丁寧な言葉でレッズの関係者や選手、家族にお礼を述べ、最後にファン・サポーターへ一緒に闘ってくれたことへの感謝を表明しこれからの浦和レッズを支えていって欲しいという呼び掛けを行った。セレモニーのあと、チームと共に場内を一周した阿部が北のゴール裏に差し掛かると、のべ14シーズンの戦いを讃える文字と絵が浮かび上がった。人の手によって掲げられるビジュアルは今季ホームでは初めてだった。

その1週間後のJリーグ最終節。アウェイ名古屋戦で阿部は4ヵ月ぶりにメンバー入りした。両チームとも持ち味を出しながら集中した守備でスコアレスが続く中、80分にピッチへ送り出された。アディショナルタイムを含め15分間、阿部は現役最後のプレーを披露した。それまでレッズが攻勢を取っていたペースを変えず、最後まで攻め続けながらドローで試合を終えた。
そこからの2週間は、最後に残されたタイトル、第101回天皇杯を獲得するための準備に費やされた。選手の誰もが「阿部ちゃんに天皇杯を掲げて欲しい」という思いでいっぱいだった。12月12日の準決勝では、ルヴァンカップ準決勝で敗れた相手、C大阪にしっかりと借りを返した。

12月19日、チームとして初めて足を踏み入れた新国立競技場。天皇杯決勝の相手、準決勝でJリーグ王者の川崎を破って進出してきた大分は、6シーズンにわたって指揮を執ってチームをJ3からJ1まで引き上げ、今季で退任する片野坂知宏監督のために、と選手が燃えていた。早い時間に先制したレッズだが、その後追加点が取れず、ちょうど90分に差し掛かった時間帯に追い付かれた。沸き立つ大分に対して冷静に勝ち越し点を取りに行ったレッズはCKのリバウンドを柴戸がミドルシュート。これを槙野が頭でコースを変え、ネットにたたき込んだ。

思いもよらない劇的な形でタイトルと来季のACL出場権を手にしたレッズは、表彰式の後、登録選手全員とスタッフが集まり、阿部がキャプテンとして最後のカップを高々と掲げた。

引退を表明して以降、阿部の口から「最後に自分が天皇杯を掲げたい」という言葉を聞くことはなかった。しかし、これからのレッズのために若い選手たちがアジアで戦う経験を積むことは絶対に必要だ、と強調していた。そのためにこの天皇杯を獲りたいという願いは叶った。

そしてファン・サポーターに対しては、今後のレッズを支えていきながら選手たちに「浦和レッズで闘う責任」を教えてあげてほしいと願う一方、子どもたちが『浦和レッズの応援ってすごい』『俺たちも応援していきたい』と思われるような存在になって欲しいと提言もしていた。

阿部勇樹は最後まで、今後の浦和レッズに思いを馳せていた。今季で現役生活にピリオドを打ったが、彼の願いは来季以降もクラブ、チーム、サポーターの中に受け継がれていくだろう。

22

個人成績 (出場 / 得点)

通算
20 / 3
J1リーグ
13 / 3
リーグカップ
6 / 0
天皇杯
1 / 0

獲得タイトル

天皇杯